明日も精神科医

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Posted by kobayashi_kei on

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断続

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先日行った認知症の講演会で聞いた話ですが「外来の患者さんに『朝の連続ドラマを見ていますか?』と聞いた時に『昔のはおもしろかったけど、最近のはつまらないから見てない』と答えたら、記憶障害の可能性あり」だそうです。
15分のドラマを楽しむためには必ず昨日の話を記憶していなければならず、それができなくなると毎回この人が何者で何の話をしているのかさっぱりわからないのでおもしろくなくなるそうです。認知症の人でも相撲と歌謡コンサートはかなり長く楽しめるとも話していました。

私たちは経験と記憶を頼りに生きています。たとえば来月から1週間海外旅行に行くという予定があった場合、その時期のために仕事を調整し、新しい用事を断り、必要になりそうなものを想像し、友人と海外旅行の話で盛り上がり、様々な交通手段で空港までたどり着き、空港で搭乗手続きをし、飛行機に乗り、現地で外国語を話し、現地のマナーで食事をし、その気候にあった服装をし、最後には元の自分の家に帰り着きます。この全てに様々なレベルで記憶と経験が影響しており、これまでに経験したことをいっさい記憶できなければ、それ以外の脳や身体の機能が正常であってもおそらくほとんどのことができません。

またふだん私たちが”記憶”と言う場合、ある程度まとまった出来事なり情報なりを指します。「一年前に職場の研修で会った人」や「1492年になにが起きたか」など、思い出す作業をしたときに「覚えている」「忘れた」というかたちで記憶は意識されます。

しかし私たちにとってもっと短い記憶、記憶とも意識されない瞬間ごとの記憶も非常に大切なはたらきをしています。
たとえば私が今ワープロを打っていて”T”のあとに”A”を押して”た”を作り上げるのも「”T”を押した」という記憶が保たれることで初めてなせるわざです。
なんらかの行動をするということは、瞬間瞬間の連続で成立しており、”直前の一瞬”と”現在”と”直後の一瞬”をつなげ続ける作業に他なりません。その連続性が極端に失われると、今ここで文章を書いている自分が次の瞬間には海岸で倒れているかもしれず、次の瞬間には老人になって介護を受けているかもしれず、記憶がなければその間の出来事もまったく意識することができません。
そこまで極端でなくても、自分が話をするときや人の話を聞くときなども、連続性が保てなければどちらも正常に行うことができません。統合失調症ではこうした思考の連続性が障害される連合弛緩という症状があり、前後の思考の繋がりがなくなるため、まったく了解不能な話を一生懸命し続けることになります。

しかしこのような情報の連続性を、私たちはどのように認識し、記憶しているのでしょうか?一本の糸のように切れ目なく繋がっているものであればいいのですが、脳は基本的にニューロンの発火の繰り返しによるデジタル処理なので、コンピューター上に描かれた糸のように拡大するとドットの繋がりになっていることが予想されます。
それはつまり、私たちの”一連の記憶”はよどみなく連続しているものではなく、フィルム映画のようにフレームごとに区切られたものを脳が再構成して、あたかも連続しているかのように処理してくれている可能性が高いのです。

おそらくはそのような単純な一次元の情報処理ではないと思うのですが、最も単純なコマ撮りのようなシステムを考えたとき、気になるのはそのフレーム数です。1秒間に1000フレーム認識できる人と10フレームしか認識できない人では得られる情報の量も使用するメモリの量もまったく違います。フレーム数が多い人ほど細かいところまで知ることができそうですが、脳の容量を多く使い過ぎてしまうため、記憶等の他の部分の機能がおろそかになるかもしれません。
また、認識されるフレーム数は個体だけでなく情報の種類やおかれた状況等でも使い分けられていることも考えられ、「覚えよう!」と思った大事な話では細かく認識され「どうでもいい!」と思った話ではメモリを節約している可能性もあり得ます。

フレームの数はきっと時間の認識にも影響していきます。スーパースローカメラのように極端にフレームの情報を増やすことで認識される時間の流れもゆっくりになるはずです。時間の流れ方そのものは変わっていないのにです。
もしかしたら「歳をとったら一年たつのが早くなった」というのもそうした影響かもしれません。脳の衰えによるフレーム数の”節約”が、時間の認識そのものを早めているのです。
繋がっているように見えるこの時間は途切れた瞬間のパッチワークであり、その間には存在はしていても認識も記憶もされないブランクがあります。ブランクの時間に私が存在していたことを証明するものは何もなく、断絶された認識と記憶の中で、私たちは連続して生きていると思わされているだけなのです。

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