明日も精神科医

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Posted by kobayashi_kei on

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孤独のエボリューション 3

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- ネットは孤独がよく似合う

今私の目の前には、モニターとキーボードがあり、その横にはマウスがあります。私はキーボードをたたくことで画面上に文字を打ち込み、完成すればマウスを動かしカーソルを「記事を保存」ボタンに合わせてクリックすることで作業は終了です。私の周りには誰もおらず、誰の助けもいりません。

パーソナル・コンピューターは、文字通りコンピューターを一人の人間の所有物とし、個人作業用のワークステーションとして究極の進化を遂げてきました。もともとは大規模な計算を行うための機械でしたが、その計算能力を表現能力に変換し、文字入力や図形の描写、表の作成など、様々な仕様を可能にしました。今や当たり前のようにモニター、キーボード、マウスという組み合わせを受け入れていますが、これも試行錯誤の上にたどり着いたデザインであり、古いアニメ(ルパンとか)に出てくるたくさんのボタンとランプがついていて穴の開いた太いテープのような紙がペロペロと出てくるようなシステムが変な方向に進化していれば、今とはまったく違う時代になっていたかもしれません。

しかし、開発当初のパソコンは「書類が書きたい」「図面が描きたい」「データを統計したい」といった能動的な目的があって初めて役割を果たす事務的な機械であり、何も考えずに画面を見ながらマウスやキーボードを触っても何も面白くない、退屈しのぎにもならない代物でした。
その状況は1980年代にコンピューターを用いたゲームが登場したことにより一変します。テレビに繋ぐ安価な家庭用ゲーム機は瞬く間に人々を虜にし、特に子供たちは"人間ではなくコンピューターと遊ぶ時代"を新しいものと感じることすらなく、当たり前のように享受していきました。
テレビゲームは孤独な人間の孤独感を埋めるツールとしても重要な役割を果たし、世界中の人間をドラッグのような依存状態に陥れましたが、それも所詮はモノによる孤独のごまかしであり、はまり込むほどに孤独は強調されていきました。
そして、モノによって満たされる孤独の限界、コンピューターの普及という時代のお膳立ては、インターネットというツールに新しい可能性を求めました。情報により孤独感を満たす時代の到来です。

インターネットは居ながらにして大量の情報を受信できると同時に、自身の情報を不特定多数の人間に向けて容易に発信することを可能にしました。
これまで本やテレビ、映画やゲーム等の情報媒体で孤独を満たそうとしてきた人間の、どうしても満たすことのできなかった問題を解決してくれる方法がついに産まれたのです。
ネットより前の時代、不特定多数の人間に向けて情報を発信できるのは選ばれた人間だけであり、発信に至るまでのプロセスにも多くの人とのコミュニケーションが必要でした。
普段から人と接することがなく、手紙も電話もする相手がいないような人にそのようなことができるはずもなく、どれだけ情報を得たとしても、それをアウトプットをできる相手も機会もない状況は、孤独感を募らせる一方でした。
しかしインターネットを媒介にすれば、自分の思考や感情を簡単に公の場に出すことができ、他人から何らかの反応が得ることも可能になりました。これまでに人と向き合うことができない、会話がうまくできない、誰かといるより一人でいることが好き、などの理由から孤独を選択していた人たちにとって孤独な状態でも人と繋がることのできる、新しいコミュニケーション手段ができたのです。

こうした潜在的な孤独感、”いつでも誰かと繋がっていたい”という欲求は誰もが内に秘めており、時代のポテンシャルとして蓄えられていました。日々の生活を便利にすることでコミュニティの繋がりを希薄にしていったテクノロジーの進化は人々の孤独を漫然と募らせ続け、その流れを揺り戻すかのようにインターネットは発達し、ソーシャル・ネットワーキング・サービスという形を経て、さらに進化していきました。


- ネットは孤独を満たすのか

私がFacebookやTwitterを始めた当初、フォロワー数ばかりを気にして一喜一憂していた時期がありました。自分の知っている人を探してフォローをし、フォロワーの数が増えたり増えなかったりする状況を眺めていたときの感情は、ゲームの得点稼ぎのようでもあり、自分が孤独でないことをその数字が認めてくれているような、これまでに味わったことのない不安と興奮の入り交じった特殊な快感でした。

SNSの優れた点は、自分の好きな情報だけを選択して人に伝えることを可能にしていることです。生身の人間同士のコミュニケーションでは、どうしても見た目や話し方、体臭、空気感などの様々な要素が介在し、また自分の話したいことだけを話して立ち去るだけで「いいね!」と言ってもらえるわけではありません。自分の好きでない自分の部分を晒しつつ、相手の出方を伺いながらその場を成立させる振る舞いをすることは、意識すればするほど複雑で難しい作業です。いわゆる自意識過剰でゴチャゴチャ考えてしまう人ほど強いストレスを感じてしまうため、その面倒くささからやむなく孤独な状況に陥る傾向があります。
しかしSNS上であれば自分の出したい部分だけを情報化し、発信することができます。知識を出したい人は知識を、作品を出したい人は作品を、見た目を褒めてもらいたい人は自分の身体の一部の写真や動画を出すことでその価値を評価され、分解された自分のパーツのみでのコミュニケーションを可能にしてくれました。
このことにより「孤独かそうでないか」というこれまでの全か無かの明確な状況は変化し、「孤独なんだけどなんとなく人と繋がっていられる」というぬるま湯のような状況が幅広く浸透しました。
一人でいたい、孤独の楽しさに浸っていたいという人でもパソコンやスマートフォンを覗けば自分が真に孤独ではないことを確認でき、孤独感を軽減するための情報発信も容易にできるようになりました。これまでにお金やモノでは解決することのできなかった”孤独感のない孤独”を実現するツールとして、我々はインターネットを手に入れることができたのです。


しかし、現実社会でインターネットの急速な進化が多くの人たちにもたらしたのは、残念ながら孤独な人間への心の安らぎではなく、さらなる孤独感の助長でした。
ネットの拡充とともに”リア充”、”非リア充”という言葉が横行し、ネットゲーム上でしかアイデンティティを見出すことのできない人間は”廃人”呼ばわりされるようになりました。
これまでにひっそりと孤独に耐え忍んできた人たちがネット世界で孤独を解消する場を見いだそうとしてしまったことにより、”ネットでしか生きられない人”と”現実でもちゃんとやれる人”という格差も顕在化することになったのです。
そして誰もが人から褒められるような優れた情報を発信できるわけではなく、人の悪口やデタラメの情報で注目を浴びようとする人間がいかに多いかも露呈することとなり、早い段階から負の感情の吹きだまりとしてもインターネットは機能することとなりました。よかれと思って発信された情報でも、人からの評価も必ずしも「いいね!」だけではなく、「見るに値しない」と評価されてしまうことも多く、満たされない自己承認欲求は現実世界でもネット世界でも孤独感を埋めることのできない人間を作り出しました。

結局インターネットで孤独を満たすことができたのは”インターネットで孤独を満たすことのできる人”であることがわかり、ツールとしての可能性を大幅に広げることはできたとしても、万民を救済する船にはなり得なかったのです。

つづく

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