明日も精神科医

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Posted by kobayashi_kei on

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孤独のエボリューション 2

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- 生命としての営み、それ以外のこと

去年の夏に牧場に遊びにいったとき、そこで羊を見ました。羊は群れをなし、ときどき犬や人に追い立てられて走らされたりしていましたが、それ以外の時間はただ黙々と草を食みつづけており、そしてしばらく経つと死んだように横たわっていました。特に嬉しそうでも楽しそうでもなく、かといってそれ以上の行為を求めるわけでもないその姿は、見ている私たちにとって非常に退屈であり、また「それだけの一日で満足できてしまうのか」というちょっとした羨ましさも感じさせました。

根本的に生物の営みとは、自己の生命を保つこと、そして次の世代に生命を受け継ぐことです。動物にとっては食事、睡眠、排泄、生殖行為の4つが生きることの根幹をなしており、基本的にはそれらが満たされれれば本能として満足できるようになっています。個々の動物が持つ特徴的な行動も、たいていは安全に生命を保つためのプラスαの行為に過ぎません。

しかしイルカや類人猿、そして人間など大脳皮質の発達した動物であるほどこのプラスαは複雑化していき、生命活動、いわゆる"生活"におけるそのウェイトは高くなっています。
とりわけ人間は生きるための行動、寝て食べてトイレに行って寝て食べて…ができていれば生物としては十分なはずなのに、それだけでは許されず、なにかしら人間特有の行動をしなければ人間としての価値を認めてもらえなくなっています。
子供のころ母親に「食べてすぐ寝るとウシになるよ!」と叱られた覚えがあり「ウシのなにが悪いんだ!」と思いましたが、ウシではだめなのです。

これはもともと狩猟生活から農耕生活に移ったことに代表されるように、より多くの人間が安全な生活を確保しより多くの生命を受け継ぐための、人間による動物的戦略の一環でした。本能的活動とは別の社会的活動をより高度化させることで、いまや全生物の中で圧倒的な支配権を獲得するに至りました。社会的活動が優位に行える人間ほどより優れた人間として評価されるようになっており、いまや睡眠や食事、生殖行為を犠牲にしてでも社会に貢献することの方が尊いとさえ思われるようになっています。

こうした本能的活動のプラスαであったはずの社会的活動のウェイトは知らず知らずのうちに極度に肥大化し、私たち人間に強迫的な意識を植え付けています。
寝て食べてトイレに行って寝るだけなんてダメだ、社会に出ないとセックスもできないぞ、社会に出ろ、社会に出ろ、一人はダメだ、一人でいるな、一人でいるな、という意識が誰しもの中にあり、それがいっそう孤独を忌避するものとし、孤独感を強めているのです。


- 孤独を埋める発明

精神的にも肉体的にも特に問題がない人が、本当に「何もしない」を24時間貫き通すのは意外と大変です。
孤独感に伴う不安や恐怖などと言うおおげさなものより前に"ヒマ"や"退屈"といった感情が湧き上がり、ついつい何かしらをしてしまいます。
文明というものがなかった太古の昔にも、人間が皆仲良しだったわけではなく、孤独な人もいたはずです。そんな社会が未成熟であった時代、どのようにして人は孤独を埋めていたのでしょうか?

本当に何もすることがないとき、人はとりあえず考えるという行為に耽ります。あれがしたい、これがしたい、こんなものが食べてみたい、といった前向きな空想から、ああなったらどうしよう、こうなったら困るといった後ろ向きなものまで様々なことが頭に浮かびます。
そして考えることにも飽きたら行動に移します。例えばものを作る、絵を描く、ものを集めるといった行為はかなり初期の時代から行われていたでしょう。縄文土器やラスコーの壁画などはその中でもとりわけ優れたものであったと思われます。
これらは全て自分自身とのコミュニケーションであり、そこから先に進もうと思えば、どうしても他者と関わることが必要になってしまいます。この時代の孤独はここで終了です。

しかしその後の文明の発達により文字が産まれ、情報の伝達手段が産まれました。人は人と関わらなくても他人の考えに触れることができるようになり、絵や文字が描き出す世界は、孤独な人をより豊かな空想の世界に誘うことを可能にしました。
食事、睡眠、排泄、生殖行為といった本能的活動でもなければ、それを支える何かを直接生み出す社会的活動でもない、他の動物から見ればなんの役に立つのかさっぱりわからないような”文化的活動”というものが人類全てに流行し、孤独な人の産み出したものがより一層孤独な人の孤独を埋めていく方向に発展していきました。
さらには経済の発達や物の流通の発達により、次第に世の中には多くの物が溢れ返るようになり、たとえ人と関わらなくても、物質による豊かさを得ることで生活を満たし、世の中はどんどん人の手を借りなくても生きていける方向に進歩しました。

私たちの国でも戦後の高度経済成長期を経て、お金と物の所有量が豊かさの指標となり「幸せの大半はお金で買える。お金持ちは幸せだ」という意識が広く庶民に浸透するようになっていきました。人々は一生懸命働いてお金を貯め、マイカーやマイホーム、高級オーディオやブランドのバッグにあこがれを抱きました。

そしてこのような物質至上主義が最高潮に達したバブルの末期、あたかも時代のひずみから産み落とされた妖怪のような形で”おたく”と呼ばれる人たちが世に紹介され始めました。彼らは漫画、アニメ、ゲームといった虚構の世界に没頭し、その汚すぎる風貌とあまりにも低い社交性はある種日本のヒッピーのようであり、社会に対するアンチテーゼのようなものも感じさせました。子供の頃に初めて見た宅八郎さんは、本気で怖かったです。

しかし残念ながら、有り余るほどのお金も、食べきれないほどの美味しい物も、おもしろいアニメや漫画も、人々の孤独感を完全に埋めることはできませんでした。他人を犠牲にしてのし上がった大金持ちの老人は孤独の象徴として描かれ、バブルが過ぎた後の日本では恐ろしいほどの虚無感と不安が満ちあふれていました。
初期のおたくの人たちも油断をすればすぐに沈み込んでしまうよな暗い孤独の影を背負っており、まだまだ世の中で許容される存在ではありませんでした。


社会的、物質的に豊かになるほど人々はコミュニティがもたらす煩わしさから離れようとし、できるだけ少人数の、ある意味で孤独で快適な暮らしを追い求めてきました。
その一方でお金と物によって満たされるはずだった孤独感は驚くほど期待はずれであり、満たそうとすればするほどその孤独の穴は広がっていくようなジレンマさえ抱えていました。

誰もが目指した孤独の中で孤独感を解消することができず、また人と繋がらなければ生きていけないような前時代のコミュニティに戻ることもできないような時代の行き詰まりのなかで、良くも悪くも次の変革をもたらしたのが、インターネットでした。

つづく

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