明日も精神科医

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Posted by kobayashi_kei on

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誰よりも上手い、コミュニケーションを。

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(ネタバレありです。ご注意ください。)

コミュニケーションは奥が深く、そして難しいものです。世の流れは個人のコミュニケーション能力を重視する方にどんどん流れていき、上手にコミュニケーションができるかどうかで、就職、恋愛、結婚、受験といった人生における大イベントの成否が決定されます。

そんなコミュニケーションの難しさに苦悩する若者を軽妙に描いた物語が、九井諒子の短編「パーフェクト・コミュニケーション」(短編集「ひきだしにテラリウム」収録)です。


昔から人との交流を避けがちに過ごしていた主人公は、自分の会話能力の低さについて、ゲームをしながら悩みます。
「音ゲーとは、リズムに乗って適切なタイミングで動作し点を得るゲームの総称だ。初心者は画面を見て、頭で考えてから身体を動かす。そこに遅延が生じ、一度に多くの動作を求められたとき、遅延が生じる。慣れた人は反射神経で動くから、ラグが発生しない。リズムが乱れない。もちろん最初からできる芸当じゃない、場数を踏んで、経験を積んで、結果が出る…。」「わかってるんだけどね…。」

ある日、主人公はバイト先で同じバイトのかわいい女の子にふいに話しかけられます。「湯谷さんって休日は何をしているんですか?」
突然流れ出す矢印コマンド!ボタンに表示される選択肢![ゲーム]、[ねてる]、[エロ動画収集]、[読書]…。
「ほ、本読んだりとか…?」
「えー、読書好きなんですか?」
さらに続々と脳内に溢れる選択肢。[相手の目を見て]、[笑顔で]
[近所に大きい図書館があって]→[そのホールで]→[コーヒーを飲みながら]→[本屋で買った本を読むんだ]

「??図書館行くのに、本屋さんで本買うんですか?」
脳内のゲーム画面には"BAD!"が表示され、ここから会話を持ち直そうと必死で頑張るも、まったく上手くいかず、なぜか延々と北方謙三の”水滸伝”について語り続けてしまいます。「どうでもいい」「そんな話しても相手は困る」「今のおれは最強に気持ち悪い」と頭の中ではわかっていながらも、そこから立て直す方法がわからず"BAD!"を量産。最終的なゲーム画面には”ランクF”が表示されます。

主人公は思います。「もうだめだ…。会話もまともにできない人間だと思われただろう。というかなんだ?目を見ながら、笑いながら、話を聞きながら、相づちをうちながら、良い話題を選択しながらって、無理ゲー過ぎるだろ…!最悪だ…。」
しかし、女の子のほうからは意外な反応が返ってきます。
「…湯谷さんって静かな人だと思ってたけど、好きなもの語らせたらちょっと面白いタイプですね?よかったらその本今度貸してください。いろいろ興味わきました!」
また思います。
「…あれ?なるほど、ゲームとは違って、会話は絶対評価ではないんだな。なるほど、ちょっとだけ、会話の面白さがわかった気がする…」
そして最後の一コマ、ライトなオチでお話は終わります。



短く、素朴な話ですが、現代的な示唆に富んでおり、とても興味深いです。というかこの主人公のこの気持ち、痛いほど共感できてしまいます。

この物語の主人公は、思考しながら会話しようとしています。
思考とは、頭の中に次々と浮かぶ連想を、選び取っていく過程です。例えば「おなかがすいた」という思考から「カレーを食べよう」という思考までに、「おなかがすいた」(A)→「なにか食べたい」(B)→「昨日の昼はおそばだったな」(C) →「今日はそんなにぜいたくするお金はないな」(D)→「そんなにゆっくりする時間もないな」(E)→「近所にどんなお店があったかな」(F)→「あそこのカレー屋ひさしく行ってないな」(G)→「カレーを食べよう!」(H)といった感じとなり、これだけシンプルな考えでも間にいくらでもパターンをはさむことができます。
(A)から(B)の間だけを見ても、(B)は一つの選択肢に過ぎず、「おなかがすいた」(A)→「まだ食べるのはがまんしよう」(B')「みんなもおなかすいてるかな?」(B'')「しかも眠たい」(B''')など、繋がることのできるバリエーションは膨大にあり、どれを選択するかでその後の選択肢も全く異なってきます。

こうした連想の流れを”思路”と呼んでおり、いわゆる正常な思考には、適切な選択肢を選び取る能力と、適切なスピードで考える能力が要求されます。
無関係な選択肢が次々と選び取られ、思考にまとまりがなくなると”連合弛緩”や”支離滅裂”などと表現され、統合失調症に特徴的な症状になります。スピードが極端に遅くなると”思考制止”といううつ病に典型的な症状に、極端に速くなると”観念奔逸”という躁病の一症状となります。精神疾患として扱われるということは、思路の障害はそれだけ大きな支障を社会生活に与えているということであり、事の重大さが伺えます。

一人で考えるだけでもこれだけ複雑なプロセスを即座に要求されるのに、会話になるとさらに話は複雑になってきます。
まさにこの話にあるように、相手の言っていることを理解し、適切な返事を考え、さらに返ってきた返事に適切な返事を考え、相手の反応を観察し、自分の表情や身振りを監視し、会話を適切な方向に持っていくことが要求されます。
意識しなければならないことはあまりにも多く、またスピードも重要であるため、ゆっくりと頭で考えながらできるものではありません。それだけ会話は難しい作業なのです。

実際に、上記のような思路障害のある人は会話にも大きな支障をきたしますが、精神疾患の有無に限らず会話が苦手な人は山ほどいます。いわゆる発達障害の診断基準に”コミュニケーションの質的障害”というものもありますが、コミュニケーションに悩んでいない人の方が珍しく、会話が苦手かどうかだけで正常と発達障害を区別することはできません。

事実、私も若い頃のコミュニケーションをさぼりがちだったため、いまだに人との会話を振り返ってはクヨクヨと後悔するタイプの人間です。ただやはり10代の一番思い悩んでいた頃に比べれば、ずいぶんとマシにはなった気がします。
自分自身の実感として一番変わったことは「気にすることが減った」ことな気がします。自転車の運転のように、最初はこわごわでも次第にスイスイと運転できるようになり、最初の頃は少しふらつくだけでも怖かったのが、同じようにふらついてもこの程度なら大丈夫というのがわかるようになり、気にせず運転を続けられるのと似ています。結局は”訓練”と”慣れ”が大切であり、何度も転んでケガをしながら習得するしかないのは、会話でもなんでも同じです。
さらにこうした失敗への恐怖に対して「もっとしたい!」という欲求が勝るのが、いわゆる才能とかセンスとか呼ばれるもので、こうした人たちの習得能力は段違いであり、自分のような頭で考えてすぐに二の足を踏んでしまう人間にとってはうらやましい限りです。

この主人公もまた、頭で考えてどうにかしようとするタイプの人間です。その時につい陥りがちなのが「うまくコミュニケーションをとらなければならない」という強迫的な考えです。音ゲーで表現されているのは非常に象徴的で、自分の中でポイントをつけて、自分の中で評価して、その結果に勝手にヘコんでいます。
実際の会話はゲームとは異なり、自己完結するものではありません。自分はプレイヤーであると同時に相手のプレイを評価する立場にもなります。相手が自分によほどのマイナス感情を抱いていないのであれば、相手も自分に「良く評価されたい」と考えているはずであり、多少の失敗はお互いさまで、気にもしなくなります。

上手なコミュニケーションを意識しなくなったときが、上手なコミュニケーションの始まりです。

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