明日も精神科医

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2013年を幸せに過ごすために

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少し前ですが、ブータンという国が「幸福の国」としてメディアに取り上げられたことがありました。国民の多くが「幸せです」とカメラに向かってニコニコと話すその姿に「素敵な国だな」と思いつつも、「なんか違うな」と感じたことを覚えています。

少し前にクリスマスがありました。日本では「恋人や家族と過ごす大切な日」という位置づけが強く、街中にはきらびやかな装飾や陽気な音楽が溢れ、幸せいっぱいのムードで満ちています。テレビでもこうした素敵なクリスマスを喧伝する一方で、一部の深夜番組、そしてネット上の大半ではそんな素敵なクリスマスを送れない日陰者たちのうらみ・つらみ・ねたみ・そねみの声が呪詛のように垂れ流されます。
持つものと持たざるもの、幸福な人と不幸な人がはっきりとわかれる日ですが、どちらにも共通することは「みんなそれなりに楽しんでいる」という事実です。なんだかんだで良い日ですね。


精神科で勤務していると、幸福、そして不幸という観念が決して単純に二分できるものでないということを実感します。
基本的にみなさん何かしらの不幸を抱えて来院されるのですが、仕事もお金も家族もあって社会的にいくら満たされていても不幸のどん底から抜け出せない人はとても多く、一方で重度の精神障害で仕事もお金も無く、病院から一歩も出られないような生活を送っているにも関わらず全く不幸に見えない人も大勢います。

おそらく究極の幸福とは、外からのあらゆる事柄にストレスを一切感じず、自分の内側の幸福を余すことなく享受する状態であると考えられます。しかし認知症の果てに病院や施設でそうした状態を迎えた人に出会い、ドロドロの食事をおいしそうに食べて車いすから動かずに糞便も尿も垂れ流しのその姿を見て、一体誰がこの究極の幸福状態を望むでしょうか?
そうなるとその先にある死こそが幸福の果てなのかという話になりますが、それもまたあまりにも極論すぎます。生きていてこその幸福であり不幸なわけですから。


幸福には、主観として常に感じられる絶対的なものと、何かと比べて初めて産まれる相対的なものがあります。
浅薄な例ですが、ブータンの人のように「この国に生きていることそのものを幸福だと思う」といえる場合は絶対的な幸福度が高く、日本人のように「ものすごく恵まれているけど、なんだかんだで悩みはあるし仕事はしんどいしで幸福であるとは言い切れない」という場合は絶対的な幸福度は低いと思われます。
一方で死ぬほど働いた後の休暇がすごく嬉しかったり、海外から帰った直後に食べる白ごはんが泣けるほど美味しかったり、ずっと好きだったミュージシャンのライブをようやく見れたときのえもいわれぬ感動などは、相対的な幸福感です。こちらについては普段から幸せいっぱいに生きていない日本人の方が強く実感できるのではないかと思います。
相対的な幸福感は一時的なものであり、同じ刺激に慣らされているとすぐに幸福であると実感できなくなり、次の幸福を求めるようになるのも特徴です。「なんでもないようなことが、幸せだったと思う」は、失って初めて分かった相対的な不幸です。


絶対的な幸福にしろ相対的な幸福にしろ、その閾値は人それぞれです。どんなに偉業を達成しても幸福を実感できない人もいれば、何もしていなくてもずっと幸せな人もいます。不幸もまた然りで、どんなに失敗続きでも全然不幸にならない人もいれば、何一つ困ったことがないのにずっと不幸な人もいます。
そう思うと年の瀬くらいは「いろいろあったけどまあ悪くない一年だったかな」と思うことができれば、今年あった良いことも嫌なことも全てを次の年の糧にすることができ、必ずや幸福な2013年を過ごすことが "できたことに" なります。

要は気分の問題です。
http://ashitamoseishinkai.blog.fc2.com/blog-entry-37.html
奇しくも今年の初めに同じテーマで書いていましたね。ドラえもん。

こんな結論でいいのでしょうか。本年も雑文にお付き合いいただきありがとうございました。
また来年もよろしくお願いいたします。皆さんの2013年が幸福な一年でありますように。

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