明日も精神科医

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怒りのエネルギー

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「なんでそこまで怒れるの?」と思えるくらい怒っている人がいます。

コンビニ、スーパー、飲食店、役所、病院、電車など公共の場所でおかまいなしに激昂し声を荒げ、明らかに自分より弱い立場の人間に対して延々と怒りの主張を繰り広げる人です。見ていて非常に不愉快ですし、場の空気もやたら悪くなります。かといって無関係の第三者が関わることでさらに不愉快な思いをするだけということもわかっているので、歯がゆい思いをしながらその場を去ることしかできないのもまた悔しいです。「こんなときにコイツを黙らせることのできる圧倒的な殺傷能力を秘めた超能力があれば…!」と空想したりしますが、それはそれでだいぶ問題があるのでなくてよかったなと思います。

こうした怒りのエネルギーが抑えきれずにエスカレートし続けてしまうと、ついには社会に害をなす存在であるとみなされ、警察、もしくは精神科に連れて行かれてしまいます。精神科の場合は多くの人が入院の適応となり、その怒りを抑えるための治療を受けることになります。


私も精神科医としてこうした人たちに多く関わっているのですが、「この人たちの怒りを抑えるためにはどうすれば」と考えると同時に、「こんな風に自分を全開放して怒りを顕わにすることは、どんなにがんばっても今の自分にはできないことだ」とも思ってしまいます。
私の怒りのエネルギーは、どこに消えているのでしょう?

生きていれば腹が立つことはたくさんありますし、怒る理由もいくらでもあります。通りすがりのちびっこに「お前の歩き方こんなんだぜ!」とマネされたり、「あのときに言われたあの一言がすごく嫌だった」と過去のことをネチネチと責められたり、言ってないことを「言った」と言われ言ったことを「聞いてない」と言われたり、ハチミツの瓶のふたが開かなかったり、スープが予想以上に熱かったりと様々です。
それでも大抵の場合その怒りを剥き出しにすることなく、ぐっと自分の中にしまいこみます。反射的に"怒らないこと"を選択してしまいこみ、優しい自分であろうとします。そしてしまい込まれた怒りのエネルギーはストレスとして私の体内に蓄積されていきます。


その場その場で"怒る理由"は厳然としてあり、"怒らなくていい理由"はそれほど無いはずなのに、不思議なほど私たちは怒らない方を選択します。それはきっと社会的生物としての訓練、しつけの賜物です。
小さい子供を見ていると、なにか小さな不満があった場合でもすぐに怒り出します。しかし大人から「怒っちゃダメ!」と怒られることで次第に怒らなくなっていきます。自分が社会的弱者であるうちに強者から「怒るのは悪」と教えられることで、怒らない、怒れない人間に仕立て上げられていくのです。
私もそうした平和な人間として育てられており、学生時代も文科系の非常にゆるい現場にい続けたためか、いざ注意や指導のために怒らなければならない状況になったとき、ものすごく怒るのがヘタです。小学生みたいな怒り方になってしまいます。最近はそうした機会も増えてきたので徐々にこなれてきましたが、やはり怒ったことによる後悔や罪悪感は強く、悲しいほどよくしつけられた人間であることを実感します。


喜怒哀楽という言葉があるように、怒りは人間の根源的な感情であり、他人の行動を適切な方向に導くための一つのアプローチでもあります。しかし喜、哀、楽に比べてその表出は極端に制限され、猛獣を飼いならすような厳重かつ慎重なコントロールを必要とします。
かといって押さえつけすぎて蓄積すればするほどエネルギーそのものは強くなり、一気に爆発させることで極端な破壊をもたらすこともあれば、最後まで爆発できずに溜めこみ過ぎることで心が潰れてしまう人もいます。我慢だけすればいいというわけでもないのです。


生きていれば怒る理由はいくらでもあり、あらゆる人の心に怒りのエネルギーは内蔵されています。それでも最近の風潮は可能なかぎり怒らない社会、怒れない社会を目指している気がしてなりません。
怒ることは許されず、怒った人は徹底して糾弾される優しい社会。その秘めた危うさに警鐘を鳴らせる人はいるんでしょうか?

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