明日も精神科医

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Posted by kobayashi_kei on

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信用するとかしないとか

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同じ仕事を何年も続けていると、当然自分より若い人たちができ、なにかを教えなければいけない立場になります。

これまではわからなかったら上に聞いてヘラヘラしてるだけで良かったのですが、いざヘラヘラしてる後輩に聞かれる立場になるといろいろなことが見えてきます。ことさらに痛感するのは、自分の知識の不確かさと、不確かな知識をその場しのぎでそれっぽく教えなければいけないことへのうしろめたさです。
もともと"正確に覚えること"がとても苦手で、医師国家試験も一向に覚えられなくて大半をゴロ合わせで無理矢理乗り切り(奇しくもゴロのセンスはありました)、どこよりも曖昧さが売りの精神科なんかに就職している私ですから、自分以外の医師はもっと的確な情報を自信を持って若い人たちに伝えているのかもしれません。
しかし医学の知識は果てしなく膨大な上、常に新しい情報が更新され続けています。昨日まで正しかった治療法が急に禁忌になることも珍しくなく、その禁忌ですら次の年には撤回されるかもしれません。教科書や有名雑誌に載った論文ですら決して鵜呑みにしてはいけないと言われている世界で、地方の一病院で働く下っ端医師の意見にどれだけ信用がおけるというのでしょうか?
結局は下の立場としては医学的に真の正解であるかという答えよりも「上の先生がそう言ってたから」という責任逃れの免罪符的な要素の方が大切なのかもしれません。そう思うと、改めて教えることがいかに恐ろしい行為であるかということを考えさせられます。


職場での関係や医師・患者間の関係に限らず、家族関係、友人関係。恋愛関係などあらゆる人間関係は、なにかしらの信用や信頼をもとに成り立っています。辞書を調べると「信用…確かなものと信じて受け入れること」、「信頼…信じて頼りにすること。頼りになると信じること」とあり、"信頼"のほうが相手に身をゆだねる度合いは高いようです。

相手を信用することは人間関係を構築する上で非常に大切であり、信用があるからこそ教育や仕事といった日常的な共同作業は成立します。しかし、私たちはふだん自分の隣にいる人間が本当に信用できる人間かを厳密に確認する作業をしていません。「信用できなくはなさそう」と「信用できる」は同義ではないにも関わらず、「信用できなくはなさそう→信用できる」に置き換えて、それとなくなんとなく集団生活を送っています。
その一方で「信用できない」の烙印はけっこう厳然と存在します。嘘をつく、人をだます、誤った情報を発信する、期待を裏切るなどをし続ければいとも簡単に信用は失われ、その後の関係において大きなハンディキャップを背負うことになります。

よく「信用を失うのは一瞬だが、失った信用を取り戻すことは難しい」と言われますが、失った信用を取り戻す以前に、厳密に"人を信用すること"そのものが人間にとってかなり難しい行為と思われます。それはとりもなおさず人間そのものが"100%の信用に値しない存在"であることを示唆しています。

例えば、他人を信用する以前に自分自身が信用に値する人間かを考えてみましょう。私自身が私の目の前に現れたとして、私は私を信用できるでしょうか?答えはもう圧倒的に「ノー」です。私は私の知識や理性がいかに信用に足り得ないものであるかを知っていますし、私がいかに嘘つきで人の信用を裏切る行為をし続けてきたかも知っています。少なくとも私の知っている範囲で私は私を信用することはできません。

それではその内面を最も知っている私自身を信頼できない私が、他人を十分に信用することができるでしょうか?やっぱりこれも「ノー」です。もしかしたら他人は自分よりもずっときれいな人間で、素晴らしい知識と感性を持ち合わせているかもしれません、しかしその逆に自分よりもはるかに汚ない人間で、人を裏切ることに何の迷いも持ち合わせていないかもしれません。他人の内面を完璧に推しはかろうとすることはまず不可能であり、理解しようと思った他人の内面には、どうしても自己の内面が多分に投影されます。自分のきれいな部分と他人のきれいな部分、自分の汚い部分と他人の汚い部分が互いに共鳴し合い、お互いの中での人物像をお互いが勝手に作り上げていくのです。
そうなると自分自身を信頼できない人間が他人を信用することは、やはり難しいことがわかります。

それでは生まれつき高潔な教育を受け続け、自身の中に何一つ後ろ暗いものがない人がいたら、その人は他人の全てを信用することができるのでしょうか?おそらくは可能と思われますし、そうした人たち同士でなら全てを委ね合い、なんの問題もない関係を築けるかもしれません。しかしその人間関係がいかに希薄で現実味がなく、どれだけ退屈なものであるかは容易に想像がつきます。それは素晴らしく理想的でなんのストレスもない世界なのかもしれませんが、少なくとも今の私にはなんの魅力も感じられません。
信用に値しない自分と信用に値しない他人のおりなす嘘と欺瞞と裏切りに満ちた世界、そのほうがよほど刺激的でスリリングであり、生きる価値に溢れているように思います。なんだか私の性格の悪さ・歪みが全開していますね、今回。


結局世の中の大半の人間が信用に値しない人間であるならば、信用するという行為そのものになんの意味もなく、"信用のもとに成り立つ人間関係"というものもただのファンタジーなのでしょうか。
おそらくそこまでの極論に走る必要はないと思います。100%の信頼はおけなくても、その人の行為や人間性をある程度信頼することは可能であり、その程度は人によって様々でいいと思います。
ただし前述したように「信用できなくはなさそう=信用できる」では決してなく、他人も自分と同じように誤り、ごまかし、嘘をつく人間であるということは理解するべきです。過度の信頼と美化は、些細なほころびから人間関係そのものの崩れを招いてしまいます。

世界を数字によって規定しようとする統計学ですら"100%信用できる"と示されることはなく、完璧な信用という観念自体が存在しないかもしれません。だからこそ私たちは信用を追い求め続け、そこに一喜一憂し続けるのです。

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