明日も精神科医

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Posted by kobayashi_kei on

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あることで失われるもの。

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先日、友人と食事に行きました。場所は街の中心部にある飲食店の並ぶ繁華街。待ち合わせる時間が不確かであったため、事前にお店を決めずにブラブラと歩いて適当なところで食べようということになりました。よくあるシチュエーションです。
二人とも特に何か食べたいというわけではなくどんなお店でもよかったのですが、なぜかどこのお店もいまひとつ入りたいと思えず、なかなか食事にありつけません。二人とも仕事明けだったのでおなかはぺこぺこで足もガクガクです。すぐにでも席についてビールでも飲みながら楽しく過ごしたいのですが、いよいよお店は決まらず時間ばかりが経過し、しまいに私はうんざりし、こう呟いてしまいました「このへんて意外とお店ないね」。

「いやちょっと待て」と思いました。あるし、目の前に何十件とバラエティに富んだお店があるし。居酒屋、レストラン、食堂、パブ、バー、スナックとよりどりみどりで、洋の東西もお店のランクも実に様々です。それぞれが生き残りのためにお店としての個性を出し、できるだけお客さんにとって魅力的なサービスを提供しています。
こんな場所で食べるところを探して「なにもない」と言う自分はおかしい、こんな一等地にあるお店なんだからきっとどこもある程度はおいしいはずだ、もう目についたお店に適当に飛び込もう!と疲労と空腹で若干ハイになった二人が意を決して入ったお店は衝撃的なほど高く、そしてマズく、おすすめ料理は品切れ、サービスもここが日本であることを疑うレベルでした。「やっぱりなにもなかったね」と言って帰りました。


月並みですが、現代社会は情報で溢れかえっています。
インターネットではあらゆるものを買うことができ、検索をすれば似たようなものが何百種類もヒットします。街に出ればあらゆる種類の飲食店や娯楽施設があり、カラオケの歌本は辞書ほどの厚さになってしまい、ついには消滅しました。
ものが増えることは豊かさの象徴であり、また民主主義的な意識の高まりからか、個人の自由意思による選択が最良であると考える傾向にあります。「あなたはこうしなさい」と他人から決めてもらえるシチュエーションは減り、あらゆる状況、あらゆる可能性に対して用意された選択肢の中から、自分に最も合ったものを自分の意志で決定し続けなければいけなくなっています。
例えば今よりも少し昔の時代、山奥の農村に生まれて農業以外に自分の生きる道はなく、災害などで畑がやられたら死ぬ以外にないような生活に比べれば、今の社会はおそろしく豊かで幸福な時代に感じます。しかしどんなに情報が増え、選択肢が増えても、個人の選びとる能力には限界があり、その能力も個人間で大きなばらつきがあります。ある問題に対して選択肢が増えれば増えるほど自分にとって正解を選ぶことは難しくなり、増えすぎた選択肢のリストはもはや選択肢として俯瞰することすら不可能にしてしまいます。それはあたかも砂漠の中で砂金を探すような作業なってしまい、多くの人が選別することを諦め、最終的に「ここには砂しかない」という判断に陥ってしまうのです。


情報が過剰に増えすぎることは、それらを適切に選別し、適切に処理する能力を人間に要求します。高度に細分化された情報の中から自分を最も幸福にできる選択肢を選び続けられた人間が最も幸福になるわけですが、それには相当のセンスと知性、そして運が必要になってきます。逆に言うとそうした能力に欠けた人間が効率的に幸福を得ることは難しく、情報処理能力を基準とした格差が生まれ、格差は社会的な生き辛さを発生させます。
現にこうした生き辛さはネット社会の拡張とともに露見してきており、精神科医療の現場にも影響を与えてきていると私は思います。最近なにかと取りざたされる"発達障害"という概念もその一つです。

広汎性発達障害やアスペルガー症候群といった診断を受けた人たち、あるいはそうした疾患の傾向が強いと言われている人たちは、独特のこだわりや思考の偏り、人の気持ちを察することや細かい部分に配慮することが難しいなどの特徴を持っています。知的には問題ない、もしくは一般よりも秀でている人も多いため、いわゆる天才や偉人と言われる人たちに発達障害に関連した精神的傾向を持ち合わせている人が大勢いることも事実です。
多くの方が一般社会で普通に生活されていますが、やはり生き辛さによるストレスから精神科外来を訪ねてくる人もいます。こうした方の多くは”空気を読む”、”柔軟に対応する”といった曖昧なニュアンスに対応することが難しく、他の人が何も考えずになんとなくできることがうまくできないため、強いストレスを感じてしまいます。
実際に感覚や雰囲気で行っていることを、逐一頭で考えて行うことは非常に難しい行為です。現在の状況、集団の特性、個人の希望などを念頭に置き、誰にとってもストレスの少ないリアクションをすることは、おそらく多数の検討項目、膨大な選択肢から適切な取捨選択をすることを要求されます。他の人たちは反射的になんとなくできることであるため、どうしてもスピードについていくことができず、テンポの遅れは歯車の噛み合わせを悪くし、「なぜできないのか」と本人も周囲も思ってしまうことでストレスが生じ、次第に孤立してしまうことも少なくありません。

日本の集団社会の悪い特徴として、空気が読めない人間、コミュニケーションが苦手な人間を非常に低く見ようとする傾向があります。”アスぺ”という言葉がスラングとして出回っていることも非常に嘆かわしい現象です。あんな診断の難しい、細心の注意を払わなければいけない病名を気軽に人につけないでください。
どこにでも数学が苦手な人、走るのが遅い人、ボールが投げられない人がいるように、意志疎通に時間がかかる人、細かいニュアンスを読むことが苦手な人もいて然るべきです。誰もが普通にできることが上手にできない人はいます。だからといってそれができないことをその人全体の否定に繋げることは間違いです。問題について理解し、様々な角度からその人を見ることで、むしろ魅力的な部分も多く見えてくるはずです。柔軟な思考が得意な人ならばそうした対応はきっと難しいことではなく、発達障害圏の人の持つ実直さや熱意、集中力の高さに対してお互い尊敬し合える関係を作ることもできると思います。


世の中の情報量は日々膨張していき、人々があからさまに翻弄されていることは、気がつけばすっかり日常化しています。膨大な量の選択肢は次第に人を盲目にさせ、かつては誰もが見えていたものすらマスクしてしまいます。他人に対する思いやりもわずかなきっかけで大きく失われることでしょう。
しかし見えないほど多くの選択肢は、見つけることでこれまでとは全く違う可能性を提示してくれることも事実です。街を歩きながらおいしいお店を探すのではなく、探し方そのものを見直せばもっとおいしいところに出会えたかもしれません。退屈な世界も見る角度を少し変えるだけで激変する可能性を秘めており、「なにもない」から「なんでもある」に変えることもできます。
私は今の時代が好きですし、もっともっとグチャグチャになることを期待しています。

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