明日も精神科医

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Posted by kobayashi_kei on

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うとまれて、うとまれて

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齢をとり、肉体が衰え、いよいよ人生の最後を迎える段になったとき、あなたはどのように死んでいきたいですか?

やはりベストは自宅の布団で家族にかこまれ、愛する人たち一人一人に最後の言葉を送りながら大往生でしょうか。ホテルのような大病院の特別室で手厚い医療を受けながら眠るように亡くなっていくのも悪くないかもしれません。
普段そうそう自分の死について思いを馳せることも少ないので、どうもイメージが貧困ですが「大切な人に惜しまれながら死んでいきたい」ということは多くの人が望むことかと思います。
しかし現実は、思った以上にうまくいかないもののようです。


例えば、認知症という問題があります。認知症は、脳を萎縮させ、人間の記憶する能力を奪う病気です。多くの場合軽いもの忘れから始まり、だんだんと日常生活に支障をきたすようになり、最終的には話し方、トイレの行き方、歩き方、食べ方も忘れてしまい、何もできない状態で人生の最後を迎えることとなります。
こう書くと非常に残酷な病気に思えますが、実際はもっと残酷です。忘れるということは、わからなくなるということです。自分の住んでいる世界にある日突然自分の常識が一切通じなくなった場面を想像してください。自分は普段通りにふるまっているはずなのに周囲から注意される、怒られる、ものが突然無くなる、自分の知らない間に泥棒が入ったのかもしれない、していたはずの仕事がいつの間にかなくなっている、これまでできていたことが全く思い通りにいかない、なぜ思い通りにいかないのかもまったくわからない、自分が変わるはずがないから、きっと周りがなにか自分を陥れようとしているように違いない。
もともとしっかりした生活を送ってきたほど自分の生活が崩れていく不安は強く、なんとかこれまでの人生を取り戻そうと必死の抵抗を続けようとすることが想像されます。また認知症の種類によっては、性格そのものが激変して温厚な人が突如攻撃的な性格になったり、幻覚に苛まれたり、昼夜逆転して深夜にあてどなく彷徨ってしまうなどの症状が現れることもあります。

こうした場合本人の苦しみだけでなく、その生活を支える家族のストレスも相当なものになってきます。
注意してもわかってくれない、突然泥棒扱いされてなじられる、わけもわからずイライラし、暴力を振るわれる、夜寝ない、大声を出す、夜中に徘徊することもあるのでこちらもおちおち眠れない、失禁をする、便を床や壁に塗りたくる、便を食べるなど、生活に支障をきたす様々な問題が生じ、しかも時間とともに確実に状況は悪化していきます。
多くの家族は懸命に介護をします。家族だから、これまでに受けた様々な恩があるから、施設や病院に入れてしまうのはかわいそうだからなど、その愛情が深ければ深いほど介護は献身的なものとなります。自分のやりたいことを我慢し、生活のほとんどを犠牲にして介護に取り組みます。
しかし献身的に介護すればするほど認知症が良くなるわけではありません。距離が近ければ近いほどその人に対する不満や憎しみも強くなります。一向に良くならない相手と疲れ切った自分に対してどんどんネガティブな感情が湧いてきますが、これまでの人生を共に過ごしてきた大事な家族にそんな感情を抱いてはいけないと思い込み、抑え込まれた感情はさらに心の深い部分で暗く大きなものとなってきます。

そしてついにストレスが限界に達し、これ以上生活を続けることができなくなった家族が精神科を訪れます。本人の病状だけでなく、周囲で支えている人たちのストレスも考慮して入院は決定されます。たいてい本人は「なんにも困ってませんよ、入院なんかしません」と話しますが、家族はここまで来たからには入院を断られるわけにはいかず、鬼気迫る思いで入院の必要性を訴えてこられます。入院が決定した瞬間に感極まって号泣されたご家族もいました。

入院が決まった際には通例、家族に急変時の対応について確認します。「もし何らかの理由で心臓や呼吸が止まってしまった場合、心臓マッサージや人工呼吸器などの蘇生処置、あるいは延命処置を希望されますか?」といった質問に「いいえ。もうこれ以上本人が苦しむようなことはさせたくありません。」と返答される方は多いです。
重く吐き出されるその言葉から、これまで幾重にも積み重ねられた愛憎の片鱗を垣間見ることができ、生活が解放される安堵感と、入院させてしまったことへの罪悪感を強く感じ取ってしまいます。


もちろん認知症の患者さんすべてがこんなに大変な経過をたどるわけではありません。周囲との折り合いも良く、自分の苦労のみを忘れて幸せな余生を送ることができる方も大勢います。
また、人口における高齢者の割合がどんどん高くなる中で介護サービスも発達し、本人、家族ともにストレスが少なく過ごすためのサポート体制も様々なものができています。世間体や個人間の愛情も大切ですが、人生を自分たちで抱え込み過ぎないこともまた大切であり、お互いの良い関係を維持するためにもできるだけ頼ってもらえればと思います。

自分の産まれを選ぶことができないのと同様に、自分の死に方を選ぶことも難しい世の中です。社会はまだまだ個人の能動的な死について選択権を与えてくれてもいません。
自分の大切な人たちから愛されて美しく立派な死を迎えたいですが、そうしたハッピーエンドに辿りつけるかどうかのほとんどは偶然に委ねられています。そもそも生きることそのものが偶然の産物です。数多の幸福な偶然の積み重ねにより、今日も元気に生きています。

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