明日も精神科医

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Posted by kobayashi_kei on

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悪意

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私には4歳になる甥っ子がいます。
常にハイテンションで向こう見ずでエネルギーと好奇心の塊のような男の子なのですが、最近は私に会うと必ず"たたかいごっこ"を挑んできます。テレビのヒーローの名前を叫び、男らしいセリフを叫び、剣や銃を振り回しながら私という悪者をやっつけるため、何時間でも戦い続けます。まあやかましいったらありゃしません。

大抵の子供で言えることですが、"正義"と"悪"という概念は驚くほど早い段階で彼ら(彼女ら)を魅了します。
子供向け番組を見ても、まったりゆるやかな「みんなでなかよくあそびましょうね」という内容よりも、かっこいい正義の味方がグロテスクな悪の使者を暴力で報復し、最終的に爆死させる勧善懲悪ものの方が圧倒的なインパクトと興奮を与えてくれます。それは今の子供たちの世代でも私の世代でもさらに前の世代にも、同様に支持されている感覚です。

ここで正義と悪の定義についてざっくりと説明してみましょう。悪とは利己的な目的を持って私たちの生活を侵略し、脅かす存在であり、一方正義とはそれらを払いのけ、私たちに平和と安心をもたらしてくれる存在という解釈でいいかと思います。こうした侵略と防衛というやりとりはあらゆる生物、それこそ植物や細菌、ウイルスですら行っている作業であり、だからこそ幼少期から本能に近いレベルで私たちの中にインプットされているのかもしれません。

しかしそんな原始的な観念である正義と悪ですが、齢を重ねるごとにそれ自体が決して普遍的なものではないことにも気付き始めます。
悪には他者侵略しなければならない理由と自らが守るべきものがあり、正義にも決してうしろぐらい部分がないわけではありません。悪には悪の正義があり、正義にも悪たる部分があることを知り、世の中はきれいに二分化できるものではないことを知ります。

そんな悪の正義たる部分を子供向け番組で描いた革新的作品が「機動戦士ガンダム」であり、正義としての圧倒的な悪を描いた代表的作品が、今回ご紹介する「魔太郎がくる!!」です。


主人公"浦見魔太郎(うらみまたろう)"は中学生。チビの上に人一倍気が弱く前の学校ではいつもお友だちにいじめられていたため(本人の母親談)そのうちに学校に行くのがいやになり、父親の転勤を契機に新しい学校に転校します。
「友愛学園」という名前のその学校は名前の通り友情と愛情を大切にすることをモットーにしており、母親も「ここならきっといいお友だちができますわ」と安心して魔太郎を送り出します。
しかし教室で自己紹介を終えて席に座った途端、早くも椅子におかれた画鋲が突き刺さります!絶叫する魔太郎に対して、隣の席の蛾馬野猛(がばのたけし)くんが「アハハハ、おまえどうしたんだ!」と笑顔で話しかけながら足を踏みつけます。陰湿!
昼休みになると魔太郎は蛾馬野とその取り巻きに絡まれ、"友だちになるテスト"を受けさせられます。「痛いと言わなければ友だちにしてやる」という言葉を信じた魔太郎はこめかみをグリグリされてもじっと耐えますが、一向に痛いと言わない魔太郎にしびれを切らした蛾馬野は魔太郎の顔面を思い切り殴り、魔太郎はコンクリートの壁に後頭部を強打します。死ぬレベルです。
転校初日とは思えない壮絶ないじめを受けた魔太郎ですが、教室では「なんでもありません。転んだだけです」といじめの事実を隠そうとします。
しかし、席についた魔太郎はつぶやきます。「こ・の・う・ら・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か」。

夜、父親が帰宅し「魔太郎のほうはどうだい」と母親に尋ねます。母親は「今度の学校のお友だちはみんな親切だそうよ、昼間も帰ってくるなりお友だちの彫刻をネンドで一生けん命作ってましたわ」と笑顔で答えます。
自室にこもり蛾馬野そっくりに作ったネンド細工に話しかける魔太郎。「フフフフ、蛾馬野くんよ、よくできたろう…。これでよし!ではそろそろ儀式を始めるか」。
テーブルの上には蛾馬野の彫刻、蛾馬野と学校を激しく非難した内容の日記、蠟燭、頭がい骨、サタンの肖像画が飾られています。「われらが万能の大神!!暗黒の世界の大支配者!!大魔王サターンさま!!サターン 善良でおとなしいこのわたしが今日、おろかでけがらわしくみにくいこの少年からはずかしめを受けました!! このうらみ!はらさでおくべきか!! うらみはらさでおくべきか!!」
魔太郎は彫刻のこめかみを思いきりグリグリします。グッスリと寝ていたところを突然の激痛が走り、悲鳴をあげ、のたうちまわる蛾馬野!「こいつめ!こいつめ!こいつめ! 蛾馬野よ!きさまはわたしにこうもしたな!」と彫刻の鼻めがけて全力の正拳突きをお見舞いする魔太郎!!「ブアーーーーッ!」と蛾馬野は大量の鼻血を噴き出して倒れます。

翌朝学校に行くとクラスの一人が噂をします。「おい聞いたか…、蛾馬野が昨日の夜中に原因不明の大けがしたってな!」それを聞いたかつての蛾馬野の取り巻きは魔太郎に向かって言います。「おい魔太郎、おめえ蛾馬野が休んでホッとしてるんだろ だがそうはいかないぜ、蛾馬野のかわりにおれたちがかわいがってやるからな…」


うらみの2番「鉄のキバがひきさいた夜」につづく


モブが2話目の敵になるという斬新なラスト。そしてこの圧倒的なカタルシス…。そのへんの生ぬるい大義名分で悪をやっつけるヒーローものの比じゃありません。魔太郎はいじめという日常的かつ絶対的な悪に対してそれ以上の悪の力で報復します。暴力に対してそれ以上の暴力を返すことはまぎれもない悪であり、自らを一切正当化しようとしない悪の使者としての態度は見事に潔く、読者に多大なインパクトを与えると同時に不思議な共感も与えることができます。実によくできたキャラクターです。


それにしてもこの作品におけるこの状況、精神医学的になにかを指摘できるのでしょうか?相当なレベルの反社会的行為が行われていますが、案外この時点で精神科的に関われる部分は少ないのではないかと思います。

たとえば浦見魔太郎の性格は自閉傾向がかなり強く、知能の高さは伺えることから、アスペルガー症候群のような発達障害を伺うことができそうです。後半のサタニックな儀式に関しては統合失調型人格障害(スキゾタイパル)や、パラノイアとしての要素を見出せますが、残念なことにこれらは実績と実効を伴っていることから、妄想というよりは現実的な報復の手段として扱われているため、精神疾患であると断言することは困難です。

蛾馬野についても生活史を見直せばなんらかの精神的な誘因、学校がもたらしたストレスなどが見つけられるかもしれません。しかしこのエピソードだけで明らかな精神疾患を指摘することはできません。

ここから言えることは"悪であること"そのものは必ずしも精神医学の対象ではないということです。悪行の背景に対して精神病理が絡んでいるかどうかを見出すことは大切であり、それがいわゆる精神鑑定なのですが、悪行そのものは司法の管轄となります。
ただしいつも話していることですが、精神的な"異常"と"正常"をわける境界は非常に曖昧であり、行き過ぎた悪行に対して"精神的に異常であった"と判定するかどうかには常に困難がつきまといます。悪意そのものよりも、抱えている悪意をコントロールできなくなった背景に何が潜んでいるかが精神医学的には重要になってきます。

悪とは他人に対する欲求を表す一つの表現形態であり、誰もが何らかの悪を内に秘め、それを抑え込みながら生活しています。私たち一人一人が違った人間であり、それぞれに欲するものがある限り、世の中から悪の観念を無くすことは不可能です。誰もが蛾馬野や魔太郎になる可能性を秘めているのです。

私たち全員が同じ人間で、協調以外のなにも欲することをしなければ恒久的な平和が得られるのかもしれませんが、それはきっと別のアニメの話になってしまいますね。

魔太郎

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