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Posted by kobayashi_kei on

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生きがいと依存と社会の構造

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"生きがい"、良い言葉ですね。人生の中でこれぞ!と決めたことに取り組む前向きな姿勢と、強い熱意が感じられます。事実、ほとんどの人間が食べて寝て排泄するだけの生活に満足することはできず、なんらかの生きがいを求め、研鑽することで人生の質をより深く、満足のいくものにしています。

例えば「俺は○○が生きがいだ!○○がないと俺は生きていけない!」というセリフがあったとしましょう。
ここに"仕事""家族""勉強"といった単語を当てはめてみると、若干熱くるしいですが、社会に対してまっとうに役割を果たそうという気概が感じられます。
では次に"酒""セックス""アイドル"といった言葉を当てはめてみるとどうでしょう。同じ生きがいについて語っているはずなのに印象が全く変わってくることがわかります。熱ければ熱いほど悲愴感がただよいはじめるあたり、なんとも残念な気持ちになってきますね。

"依存症"、ダメな言葉です。ある一つのものにハマってしまうことでズルズルと底なし沼のように沈み込んでしまい、最悪からさらに最悪の人生へと流れてしまうような印象を受けます。いわゆるドラッグやお酒といった依存性物質だけでなく、恋愛、セックス、ゲーム、アイドル、インターネット、トレーディングカード、アニメ、韓流ドラマ、占い、お菓子など、現代では様々なものが依存の対象とされています。

一つのものに強い関心を抱き、それが生活の多くの部分を占めているという点では"生きがい"も"依存"も同じはずです。事実、お酒やゲームや恋人が大好きでそれを生きがいにしている人もいれば、それに依存してしまっている人もいます。この違いはいったいなんなのでしょうか?


まず重要な点として、生活にどのような影響が出ているかが挙げられます。
あらゆる精神疾患に言えることですが、たとえどんなに落ち込んでいようと興奮していようと妄想に溺れていようと、自分と周囲が誰も困っていなければそれは精神疾患とはみなされません。「無人島で一人でいる人は精神病にならない」という言い回しもあるくらいで、あくまで前提として社会が存在し、その適応にどこまで悪い影響が出ているかが重要な診断的要素となります。
依存症の場合はある一つの事柄にハマり過ぎてしまうことにより、仕事や家事が手に付かなくなる、金銭を激しく浪費する、感情が不安定になり周囲に当たり散らす、暴力を振るうなどの行動が現れるとどうしようもなくなってきます。
たとえ本人が「生きがいなんだからほっといてくれ!」と主張したとしても、周囲はあきれはて「依存症なのになに言ってるの?治療してもらいましょうよ」となると思います。


次に挙げられることとして、ハマっている事柄がその人の心の強い部分に繋がっているか、弱い部分に繋がっているかも大切です。
生きがいであれば、それを頼りに人生を前向きに推し進められます。より良く生きるための糧であり、真剣に取り組むほどに一喜一憂させられる度合いも強くなりますが、プライドはより強靭なものとなっていき、おのずと自分自身も鍛えられていくものです。それは生きがいと言って差し支えありません。
一方依存症では、それがなくなると立っていられません。それがあるからギリギリ生きていられる、弱い自分が落ちてしまわないように支えている唯一の命綱なのです。だからこそ必死ですがり、命綱自体も太くしようと頑張ります。そこにお金と時間をつぎ込めばつぎ込むほど周囲の理解は得られなくなり、社会からの疎外感は強まっていきます。孤独はプライドをズタズタに傷つけ、心はさらに弱り、いよいよ依存しないとやっていけない状況まで陥ってしまうのです。


"○○依存症"といった表現がここまで多様化してきたのは、21世紀に入ってからという気がします。現代の人間の心がどんどん脆弱化していき、かつては生きがいとしていたものが今では依存症になっているのか、ととらえることもできますが、私はそうは思いません。
もともとみんなそんなにタフな人間ばかりではなく、ほとんどの人がなにかにすがって生きていることは、おそらく今も昔もさほど変わっていないはずです。
しかしかつてはテレビや新聞、さらに昔になるとお上の言動が絶大な影響力を与えていました。
流行や嗜好品の情報も今よりずっと少なく、多くの人が共通のものを好きになり、同じ話題を共有することでコミュニティがある程度の大きさを保ち、円滑に運営されていたと思われます。

しかし情報の量と速度とアクセスが恐ろしい勢いで進化している現在では、それぞれの人がそれぞれに自分の好きなものを選択することができます。マジョリティは存在しなくなり、マイノリティの集団同士が希薄な繋がりのなかで社会を運営しなければならないのです。
そうなると情報を商売にしてきた人達は、分散している購買層に対してより「深く、狭い」売り方を余儀なくされてきます。かつては1人1枚ずつで100万人に売っていたCDを、1人100枚ずつで1万人に売る戦略を立ててしまったあたりが好例です。
こうしたディープなハマり方を扇動する売り方はドラッグと同じで、強い嗜癖性をもった少数のコミュニティを形成します。マイノリティの行動はその外にいる人間から見ると奇妙に映るのが世の常であり、その行動が極端であるほどいわゆる"全体的な社会"からは逸脱したものとみなされていきます。ある社会主義国家の映像が異様に見えたり、高度経済成長期にアメリカから"Workaholic"と揶揄されたのと同様の現象です。
逸脱した人たちは疎外感からさらにやっきになってそこにお金とエネルギーを注ぎ込む形になり、ある人は生きがいとして社会に影響を与える力を持ち、ある人は依存症となってそれがなければ自分自身を支えられない人間となっていくのです。
選択肢が増え、細分化が進めば進むほど、こうした現象はより露骨なものになっていくでしょう。


ただ視点を変えると、周囲がその人の行動を異常とせず、"依存症"とみなさなければその人は依存症にはならないのかもしれません。結局はマジョリティかマイノリティかの違いだけで、だれもが"常識"や"社会通念"といったものに依存して生活しているわけですから。毎日白ごはんを食べる民族を見て、白ごはんを食べない民族が「彼らは白ごはん依存症に違いない」と診断したとしても、白ごはんを食べる民族からすればなんの問題もないわけです。

だからお酒とドラッグにハマって身も心もボロボロになろうと、24時間ずっとネットゲームをやって全財産を失おうと、誰かれかまわずセックスをして性病を撒き散らそうと、本人は好きでやっているわけですから、あとは社会が依存症とみなさずに受け入れてしまえば、その人は依存症ではないし、治療の必要もなくなるのです。これで世の中から病気を一つ根絶することができますし、依存症に苦しんできた患者さん、周囲の人たちを救うことができるはずです。
受け入れられればの話ですが。

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