明日も精神科医

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Posted by kobayashi_kei on

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ものすごくわかりにくい話

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話はわかりやすいにこしたことはありません。
わかりにくい話は聞いていて疲れるし、長時間ダラダラと聞かされるとイライラします。頑張って聞いたのに終わった直後何も頭に残っていなかったときの無力感は、学生の頃に何度も味わいました。患者さんに話をするときも、できるだけわかりにくくならないように気を使います。コミュニケーションを円滑にしたいのならば、"わかりにくい"は排除すべき要因です。

そんなネガティブな"わかりにくい"を改めて考えていくと、いろいろな要因があることがわかります。
例えば文章の構造的な問題。「日本は資源が乏しいが、技術力は高いのに、しかし最近は景気が悪い」のように逆説が続くとわかりにくくなります。他にも句読点を打たずに冗長な文章になったときや、主語や目的語がはっきりしないとき等も大抵わかりにくくなるようです。
そして純粋に内容が難しい場合。専門用語が多すぎたり、例えが独特すぎたり、話の要素が多すぎたりするとやはりわかりにくくなります。
他にも外国語の直訳で文章のリズムがつかみにくかったり、レトリックに凝り過ぎていたり、話の展開が激しすぎたり内容がつまらなすぎたりするときなど、多くの落とし穴によって話は簡単にわかりにくくなります。語り手は常に注意を払うべき問題だと思います。

しかし"わかりにくい"は語り手の問題であると同時に、一方で聴き手の問題でもあります。
聴く側の人間が相応の知識と聴くための技術を持っていなければ、どんなにわかりやすい話でも伝わりません。
「だれでもわかる!はじめてのユング!」という話を小学生にしても、きっと悲惨な結末を迎えるでしょう。
逆に昔はわからなかったものが、知識と経験を積むことによってわかるようになることもよくあります。
自動車教習所で配られた教科書を読んでも全然頭に入らなかったことが、教習を終わってから読むとすごく理解できたという経験は多くの人にあったことでしょう。
一度触れてみて"わかりにくい"で終わるのではなく、時間をおいて再び理解しようと試してみることは大切です。そうすることで新しい発見ができるとともに、わかるようになった自分の成長を感じることもでき、いろいろとお得ではないかと思います。


しかし世の中には、そんな瑣末な議論を通り越した、圧倒的な"知の世界"というものがあります。
それはあたかも巨大な山のように存在し、ひとたび足を踏み入れた者の知性と感性を激しく揺さぶり、桁外れの"わかりにくさ"で生半可な人間を拒み続けます。そして選ばれた一握りの人間のみが、その頂に立つ喜びを味わうことのできる、トップクラスの知の世界です。

そのような究極の"わかりにくい"世界に、精神医学はおそらく繋がっています。
もともと人を治療するための医学でありながら、同時に「精神とは何か」を問う哲学であり、人間と他の動物の違いを探究する特殊な自然科学でもあります。フロイトやユングを代表するかつての精神分析学者たちは、哲学者でありながら精神医学に多大な貢献をし、その影響を現在も与え続けています。

そして精神科医のはしくれである私もまた、学生の頃から何度かその世界に挑戦し、その度に己の無知、理解力の無さを痛感し続けています。実際に触れてみると本当にわかりにくい、わかるようで全然わからない。
例えば少し前に受けた精神病理学講演の一節を挙げさせてもらうと、

「生命学的症状の次元とは、感情推進面(気分-行為面)の症状と生命的症状、力動面の症状からなり、超個人性、身体近縁性から、疾病性、病性の直接的反映とみなしうるものである。病性が強まるにつれて生命学的症状が前景を占め、症例固有の特徴は失われていく。疾病論的観点からも最も注目される症状系列である。この次元の比較的純粋な現れが躁うつ病圏の症状である」

といった感じです。躁うつ病という普段からなじみのある疾患の説明のはずなのに、驚くほどピンときません。単語レベルではわからなくもないのですが、観念的な表現が多すぎてイメージがついていけないのでしょう。だんだんとバロウズを読んでいるような気分にすらなります。
しかしこの文章を含めた一連の講義を通じて、大半が理解できなかったにもかかわらず、つまらないとは全く感じませんでした。むしろ非常に面白く、この深遠な世界に触れられたことに感動すら覚えました。
わかりやすい話でもわかりにくい話でもなく、次元を超えた"ものすごくわかりにくい話"には、一部の人間を魅了する巨大なエネルギーがあるようです。


これはおそらく精神医学だけでなく、あらゆる学問や芸術、スポーツ、ゲーム、恋愛、人生、全てに通じるものではないかと思います。どのようなジャンルであれ究極にたどり着いた人の考えは観念的なものとなり、常人には理解しがたいものとなります。きっと理解せずとも生きていくことはできますが、それが世界を変えるほどの巨大な知であるのなら、やはり私は理解したい欲求に駆られ続けると思います。

知の巨人たちの住む世界は遠く険しく、私はまだその入り口にすら立っていません。おそらく生涯をかけて挑み続けられる道であり、そうであることを願います。楽しんでいきます。

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